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宮崎地方裁判所 昭和47年(ワ)61号 判決

原告 国

訴訟代理人 古田泰己 松下邦男

被告 河野義則 ほか三名

主文

一  被告河野義則は別紙物件目録(一)記載の土地につき、

同湯地巌は同目録(二)記載の土地につき

同湯地嘉昭は同目録(三)記載の土地につき

同合資会社湯保社は同目録(四)記載の土地につき

いずれも原告に対し所有権移転登記手続をせよ。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文と同旨

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

(一)1  原告(旧海軍省)は、昭和一九年ごろ(遅くとも昭和二〇年三月一五日)に、旧赤江飛行場の掩体壕並びに誘導路用地として、宮崎市大字本郷北方及び南方の土地約七四〇筆(以下被買収土地という。)をその所有者から買い受けた。別紙物件目録記載の各土地(以下本件土地ともいう。)はいずれも右被買収地の一部であり、原告は、

(1) 別紙物件目録(一)(1)記載の土地三筆(以下単に別紙(一)(1)の土地という。)を、後記3、(1)記載のとおり、その父である河野儀市を代理人として被告河野義則(以下単に被告義則という。)から、

(2) 同目録(一)(2)記載の土地六筆(以下単に別紙(一)(2)の土地という。)を河野儀市(以下単に儀市という。)から、

(3) 同目録(二)(三)記載の土地各一筆(以下単に別紙(二)(三)の土地という。)を湯地嘉市(以下単に嘉市という。なお右土地はいずれも当時登記簿上は湯地伝蔵の所有名義であつたが、同人は昭和一四年一一月一六日死亡しており右嘉市は旧民法による家督相続人であり当時の所有者は嘉市であつた。)から

(4) 同目録(四)記載の土地(以下単に別紙四の土地という。)を被告合資会社湯保社(当時の代表者は湯地嘉市)からそれぞれ買い受けた。

2  したがつて、本件土地について右各売主は原告に対し売買による所有権移転登記義務を負つているところ、儀市は昭和二八年三月一四日に死亡し、その長男である被告義則は別紙(一)(2)の土地について、又嘉市は同年同月七日に死亡し、その長男である被告湯地厳は同(二)の土地について、五男である被告湯地嘉昭は同(三)の土地についてそれぞれ相続人として右所有権移転登記手続をなすべき義務を承継したものである。

しかして、別紙(一)の(2)、同(二)、(三)の各土地については、右各相続を原因として、被告義則、同巌、同嘉昭にそれぞれ所有権移転登記が経由されている。

3  (別紙(一)(1)の土地に関する売買について)

(1) 右売買契約締結当時被告義則は出征中であり、一般に出征中の軍人の場合には不在期間が長期に亘ることから特段の事情のない限りその不在中の財産に関する権限は留守家族に一任しているものと考えるのが相当であるうえ、本件が戦時下における軍用目的での土地売買でありかつまた儀市が被告義則出征当時同被告と同居していたことをも考えると、被告義則はその財産を処分するについてその代理権を儀市に授与していたものと解するのが相当である。

(2) 仮に、儀市に被告義則を代理して別紙(一)(1)の土地を売却処分する権限がなかつたとしても、右儀市は少なくとも被告義則の財産を管理する権限を有していたものであるから、右事情のもとで原告が、右儀市に本件売買について被告義則を代理する権限があるものと信じたことには正当な理由があり、民法一一〇条の規定によつて本件売買は有効である。

(3) 仮に右主張が理由がないとしても被告義則は儀市の無権代理行為を追認した。

すなわち、同被告は、復員後、儀市によつて本件土地を処分されたことを知りながら、昭和二二年一月には儀市が本件土地上の立木を原告から払下げを受けることを黙認したうえ、昭和三八年には自ら本件土地につき原告に対し払下げの陳情をした。

(二)  仮に(一)主張の売買が認められなくとも、原告は、前記日時に本件土地を買収したものと信じて、他の被買収地とともに掩体壕並びに誘導路を築造し(本件土地には右施設そのものは築造されていないが、右施設の後背地にあたり、掩体壕を被い隠す役割を負つていた。)立入禁止処分をするなどして無過失で占有を開始し、終戦後は大蔵省において管理するようになり、昭和二二年一月には立木の払下げを行い、同二三年七月には被買収地を農耕地として農林省へ所管換えをした。農林省は農耕適地については遂次自創法に基づく売渡しをしたが本件土地は農耕不適地として同三七年に大蔵省へ所管換えした。大蔵省は同年七月から同三八年二月にかけて現地の実態調査をなし、境界を確定し、実測を行うなどし、現在に至つている。

よつて昭和一九年(遅くとも昭和二〇年三月一五日)から一〇年を経過した時点で、仮に占有を開始するにつき有過失であつたとしても二〇年を経過した時点で、時効により所有権を取得しているので、本訴で右時効を援用する。

よつて原告は被告らに対し、主位的に売買を原因とし、予備的に時効を原因として請求の趣旨記載の判決を求める。

二  請求原因に対する答弁

1  請求原因(一)の事実中、原告主張の日時における本件各土地の所有者は被告並びにその被相続人(以下先代という。)であつたこと、その相続関係、被告義則が当時出征して不在であつたことは認めるが、その余の事実は否認する。

2  同(二)の事実中原告がその被買収地内に掩体壕並びに誘導路を築造したこと、被買収地を立入禁止処分にしたことは認めるが、その余の事実は否認する。

3  赤江飛行場は旧海軍の航空基地として昭和一六年ごろ建設されたものであるが、米軍の本土近辺への襲来が始まつた昭和一九年ごろ、海軍省は右飛行場に接続する丘陵山岳地帯(原告主張の被買収地)に掩体壕並びに誘導路を築造する計画を立てたが、当時被買収地の所有者のうち男性は兵役について戦地に赴き、その他の者も疎開するなどしており、原告主張の日時ごろにおいて海軍省との間に土地の売買がなされるような状況は全くなかつた。特に被告義則は昭和一六年に徴兵され佐世保海兵団に入団し、同一八年四月にはソロモン群島に派遣されて同地で終戦を迎え、同二一年に帰国したもので、その間同人所有の土地の処分権限を他人に与えたことは勿論、留守家族の誰一人として原告と売買をしたものはない。儀市、嘉市、被告湯保社らも単に海軍省の一方的な立入禁止処分に従つたまでで、およそ海軍省による買収手続についてはこれに応じて売渡し承諾印を押したことも売買代金を受領したことも全くない。

三  抗弁

(一)  仮に本件売買が存在するとしても、終戦と同時に掩体壕、誘導路などの軍事施設も不要となり、したがつて本件土地も軍の解体に伴つてその用途を廃せられ、以降今日まで原告は何らの用途にも供しておらず、被告義則、同湯保社、儀市、嘉市らは立入禁止の解かれた昭和二〇年八月一五日に過失なくして本件土地を自己の所有と信じてその占有を開始し(儀市、嘉市の死亡後も相続人である被告らが相続によりその占有を承継して)、以来今日までその占有を継続しているので一〇年後の昭和三〇年八月一六日の経過により、仮に占有を開始するについて悪意或は有過失であつたとしても二〇年後の昭和四〇年八月一六日の経過により、それぞれ時効によつて本件土地の所有権を取得しているので、被告らは本訴において各時効を援用する。

(二)  仮に然ずとしても、終戦により軍事施設の用途を廃し、他に何らの用途に供していないにも拘らず、戦後永年を経た現在になつて被告らに対してのみ所有権移転登記手続を求めるのは権利の濫用である。

四  抗弁に対する答弁

(一)  抗弁(一)につき、被告ら並びにその先代らによる本件土地占有の事実は否認する。

(二)  同(二)の主張は争う。

第三証拠 〈省略〉

理由

第一争いのない事実

昭和一九年ごろ、別紙(一)(1)の土地は被告義則の、同(一)(2)の土地は儀市の、同(二)(三)の土地は嘉市の、同(四)の土地は被告湯保社の各所有であつたこと、被告らとその先代である儀市、嘉市との間の本件土地に関する相続関係は原告主張のとおりであること、(なお、〈証拠省略〉によると、別紙(一)(2)(二)、(三)の各土地については、右相続を原因として、被告義則、同厳、同嘉昭にそれぞれ所有権移転登記が経由されていることが認められる。)原告がその買収したとする土地(被買収地)内に掩体壕並びに誘導路を築造したこと、付近一帯に立入禁止処分をなしたことはいずれも当事者間に争いがない。

第二旧海軍省(呉海軍)の土地買収手続について、

〈証拠省略〉によると、次の事実が認められ右認定に反する証拠はない。

旧海軍省では、軍事諸施設を建設するためその用地として民有地を買収していたが、そのうち旧呉海軍は大阪以西の本州各県及び四国並びに九州の宮崎、大分の両県における買収を担当していた。なお呉海軍では買収代金の支払手続を経理部が、それ以前の買収手続を施設部がそれぞれ担当していたが、実際の買収手続は次のようにして行われていた。

海軍本省の指令を受けて施設部財産掛員が買収担当係として現地に赴き、土地台帳により買収予定地の所有者、地番、地目、反別等の調査をして土地買収調書を作成し、その後土地の評価、地上物件の補償額等を算定したうえ、関係市町村に依頼して所有者等を一定日時に役場、学校、公会堂等に集合させて買収についての説明会を開き、土地の単価や地上物件の補償額を提示し、各所有者(所有者が不在のときにはその親兄弟等の留守家族)から買収についての承諾を得る。その後の手続を進めるについては、市町村に依頼して、売渡し承諾書(〈証拠省略〉添付の承諾書と同一様式の承諾書の各所有者名下に押印をする。)登記承諾書、印鑑証明書など売買契約、登記手続に必要な書類、並びに市町村長を代金受領権者とする委任状、印鑑証明書などの関係書類を各所有者から集めてもらい、市町村長名義の支払請求書兼領収書(〈証拠省略〉)とともに呉海軍施設部財産掛に送付してもらう。同掛では右書類を審査した後代金支払のため、支払請求書兼領収書、付属書類である売渡し承諾書、委任状、印鑑証明書などを経理部に廻付し、経理部第二課第二調査係において、特に売渡し承諾書の各所有者の押印の有無印鑑証明書との印影の異同等を再び審査し、右審査を経た後初めて同部収支係において代金代理受領権者である市町村長に対し支払通知書を送付し、同書に受領印を得ると同時に小切手で代金を支払い、受領印のある右支払通知書原本を会計検査院に送付してその手続を終える。(但し昭和一九年六月までは後述の所有権移転登記を完了した後に代金支払の手続をしていたが、同月以降は後記のとおり登記前であつても代金を支払うことになつた。)

そして施設部は、右手続を終えた後に、買収した土地をその保管する国有財産台帳に登載し所有権移転登記手続を了し、同時に関係市町村長に通知し租税免除地の扱いをさせるとともに、当該現地には立入禁止処分をしていた。なお、戦局が厳しくなつた昭和一九年六月以降に買収した土地については、右一連の手続のうち代金の支払い国有財産台帳への登載まではなされても、その後の登記手続等を終えていないものが大半であり、また戦後海軍の解体に伴い同軍の保管していた国有財産台帳は、当該土地を管轄する関係各財務局に引き継がれた。

第三そこで本件土地買収の有無及びその経緯について判断する。

〈証拠省略〉(河野義則名下の印影の成立については争いがないから、同人作成部分については真正に成立したものと推定される。)〈証拠省略〉並びに弁論の全趣旨によると次の事実が認められ、〈証拠省略〉中右認定に反する部分は措信しない。

一  旧呉海軍では、昭和一九年ごろになり、本土決戦に備えて旧赤江飛行場の飛行機の防空対策上、臨時軍事施設としてその退避場である掩体壕並びに誘導路の建設を計画し、その用地買取のため、そのころ、同海軍施設部財産掛の海軍書記末田敏夫を右買収予定地である宮崎市大字本郷北方及び南方に派遣した。右末田は地元の神社で前後三回位説明会を開き土地所有者らに対し海軍の重要施設を建設することを説明して土地買収についての協力を求め、特に反対者もなく買収についての承諾を得、個々の土地所有者との契約手続に要する書類の取りまとめについては宮崎市長に依頼して前第二に判示のとおりの手続をとることにしその後代金の支払を前提とする会計検査院の現地調査を終えていること。

二  呉海軍経理部には「呉臨営第六〇〇号のうち三三号用地買収費」として本件被買収地の買収の対価として総額二一万一、七四二円六五銭を小切手で宮崎市長に支払う旨の臨時軍事費歳出現金支出伝票の副本(〈証拠省略〉)並びに右代金を昭和二〇年三月一五日に宮崎市長和田一次が受領した旨及び国有財産台帳登録済と記載された呉海軍施設部会計課長宛領収書の副本(〈証拠省略〉。右領収書には各土地所有者の売渡し承諾書が添付されており同承諾書には被買収地である宮崎市大字本郷北方及び南方の山林、原野、田、畑、堤敷等約七四一筆について土地所有者が買収についてこれを承諾する旨が記載され、その中には本件各土地並びに当時の登記簿上の所有者の氏名、その代価として別紙(一)(1)の土地については計八〇二円八〇銭、同(一)(2)の土地については計一、三四二円六〇銭、別紙(二)、(三)の土地については四一二円八〇銭、別紙(四)の土地については一五六円と記載されている。)が保管され宮崎市役所にも〈証拠省略〉と同様内容の書類が保管されていたこと。(なお、宮崎市役所保管の本件土地の買収関係書類は市役所の火炎により滅失し、呉海軍施設部保管のものは戦後の混乱の中で焼却されたり、水損滅失したりしたため、いずれも原本は存在しない。)

三  土地売渡しにつき、旧所有者らの手続を代行した宮崎市長も昭和二一年六月ごろにおいて、本件土地が旧海軍により買収されたことを認めており、本件土地を除く被買収地の一部は戦後原告への所有権移転登記がなされ、昭和二一年一〇月二二日には本件土地のすべてが無租地とされ、別紙(一)(1)のうち四、九三二番、同(二)の土地を除くその余の本件土地については現在も固定資産税が賦課されていないこと。

四  戦後の昭和二二年ごろから旧土地所有者による払下げ陳情運動が展開されることになり、同年一月一〇日ごろには、儀市から別紙(一)の土地上の立木につき、嘉市から同(二)(三)の土地上の立木につき、それぞれ払下げ申請が管理者である熊本財務局宮崎管財支所長になされて、同支所長により現地調査を経て立木の価格算定がなされたうえ売払処分がなされており、更に昭和三八年七月ごろには被告らを含む旧所有者からなる宮崎市本郷南方北方誘導路関係土地払下組合(組合長佐々木道夫)から南九州財務局長に対して本件土地を含む被買収土地払下陳情運動の一還として陳情書が提出されていること。(右陳情書中には、払下げ陳情対象土地として本件土地全部が記載されている。)

以上の事実と前記争いのない事実によると旧呉海軍が本件土地の買収を計画して現地で所有者との折衝にあたり、特に難行することもなくその同意を得、その後代金支払をも含め同海軍が民有地を買収するについて、通常行なう手続を履践したことが認められるのであり、これに本件被買収地の一部が昭和一九年一二月一日付売買を原因として国-大蔵省-に移転登記されている事実(この点は、〈証拠省略〉により認め得る。)を併せ考えると、本件土地はその余の被買収地とともに昭和一九年一二月一日に被告ら(別紙(一)(1)の土地については後記のとおり儀市が被告義則を代理して)及びその先代から原告に売り渡され、同二〇年三月一五日にその代金が支払われたものと認定するのが相当であり右認定を覆えすに足りる証拠は存しない。

第四ところで、被告義則所有の別紙(一)(1)の土地についても買収の手続きがなされていることは前判示のとおりであるところ、〈証拠省略〉によると、被告義則は昭和一六年一月一〇日に佐世保海兵団に入隊し、同一八年四月ころにはラバウル、ソロモン群島に派遣され、以降家族との連絡も絶えたまま同地で終戦を迎え、同二一年二月一七日に帰還するまで約四年間自宅を留守にしていたが、一方その留守宅には両親である儀市夫婦、妻ヒサヲ、子供二人が同居して生活し、同人らが義則の財産を管理していたこと、被告義則所有の別紙(一)(1)の土地は同人が幼いころの大正末期から昭和初期にかけて父儀市が買い入れ、名義を一人息子であつた義則名義にしておいたものであること、儀市も同人所有名義の別紙(一)(2)の土地を原告に売り渡していること(前判示のとおり)が認められ、以上の事実に徴すると、別紙(一)(1)の土地の買収については一家の戸主であつた右儀市が被告義則を代理してこれに応じたものと認められる。

しかして、明日の生命も分らぬ戦場へ赴く兵士の一般的意思を推し量るならば、自己不在中の財産の管理処分権を残された家族に委ねる意思で家を後にするものと考えられるうえ、本件における被告義則の土地は父儀市がいまだ幼児である同被告名義で買入れたものであり、買収当時右儀市が戸主であつたことなどを合わせ考えるならば、反対に解すべき特段の事情の認められない本件においては右買収当時被告義則は出征中の自己に代わり別紙(一)(1)の土地の管理処分権並びにそれに伴う代理権を右儀市に授与していたものと解するのが相当である。(ちなみに、被告義則も、戦後原告に対し別紙(一)(1)の土地につき払下げの陳情をしていること前判示のとおりである。)

第五次に、被告らの抗弁について判断する。

〈証拠省略〉(河野義則名下の印影の成立については成立に争いがないから同人作成部分は真正に成立したものと推認される。)及び〈証拠省略〉を総合すると次の事実が認められ、右認定に反する〈証拠省略〉は措信できない。すなわち本件土地を含む被買収地はその他の軍用財産とともに昭和二〇年一一月に熊本財務局宮崎管財支所がその引き継ぎを受けたが戦後の混乱で国有財産台帳を含む関係書類が散逸或は滅失していたのでその現地を直ちに把握するのは不可能な状況にあつたため、同管財支所では旧所有者のために売買手続を代行した宮崎市及び旧所有者の一部の者の協力のもとに、現地調査をして被買収地の範囲を確認するなどしたが、当時同地にはすでに戦災者、引揚者、復員者が入つて生活し、又立木の盗伐が行なわれるなど、人手不足もあつて厳格な管理はなし難く、まして個々の土地について移転登記手続を求めるには至らなかつた。そして昭和二二年一月ごろには旧所有者(前判示のとおり嘉市、儀市を含む)の要望もあつて被買収地上の立木の売払処分をしたが、そのころから旧地主、引揚者等による土地の払下げ陳情運動がなされていたため、被買収地は昭和二三年七月ごろ農林省に所管換えされ、同二五、六年ごろにはその一部が自作農創設特別措置法により払い下げられた。しかしながら山林、原野等の農耕不適地(本件土地を含む。)は昭和三七年三月一〇日ごろ大蔵省に逆所管換えされ、三七年九月ごろ南九州財務局宮崎財務部において旧地主の立会のもとに同人らに対する随意契約による売払を前提とした実態調査をして、被買収地と民有地、個々の被買収地の間の境界を確定してその面積を実測し、大蔵省の所管を表示するコンクリート製境界標を打ち込むなどし(本件土地にも右境界標が存在する。)、価格の折り合つたものから殆んどの土地は順次旧所有者等に払下げられたが、本件土地についてはその価格が折り合わず払下げがなされないまま現在に至つている。

一方〈証拠省略〉によるも被告らはおおよそ昭和三七年ごろまで(被告巌は同四六年ごろまで)薪炭用材を伐採したり、たき木拾いをしていたことが窺われるにすぎず他に本件全証拠によるも本件土地に対する被告らの排他的占有を裏付けるに足りる証拠も、また被告らの自主占有を裏付ける主張、立証もなく、かえつて被告ら及びその先代は、本件土地上の立木の払下げを受けたり、また本件土地の払下げの陳情をするなど、本件土地所有権が原告に属することを前提とする行動をとつていたこと前判示のとおりである。

そうすると被告らの本件土地に対する取得時効の主張は採用し難い。

また以上判示の事実からは原告の本訴請求を権利の濫用と解することはできず、他に被告らの立証その他本件全証拠によるも権利濫用の主張を裏付けるに足りる事情は窺われず、結局この主張も理由がない。

第六結論

以上によれば、原告の本訴請求はその余の主張について判断するまでもなく、すべて理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 柴田和夫 笹本忠男 渡辺安一)

別紙物件目録〈省略〉

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